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ゼミ課題読書感想文

森 諒太 201204

 


プロタゴラス

 

プロタゴラスは、主人公のソクラテスが大物ソフィストであるプロタゴラスたちと繰り広げる対話が書かれた作品である。ここで展開されるのは「徳」についての議論であり、日本語としての「徳」とは意味の広がりが違う。ここでの「徳」は「アレテ―」と呼ばれ、ものが持つ固有の優れた性質を意味する。人間のアレテ―は道徳的な性格だけでなく、勇敢さや優れた知力など、様々な能力を含み込むものであった。当時のアテネでは、アレテ―を持つ優れた人物が政治家として成功し、社会を動かすことができた。そのため人々はアレテ―を求め、ソフィストたちから教えを乞おうとした。アレテ―は教えることができるのかという問題について、そして、そもそもアレテ―とは何なのかソクラテスとプロタゴラスの間で対話が繰り返される。この二人のやり取りがこの本の面白さだと僕は思った。相手の質問に対して、論理的に相手の矛盾点を示し返答する。または、具体例、物語などを通して相手に分かりやすく明確に伝え、反論の余地をなくしていこうとする展開に躍動感を感じた。当時のアテネの知識階級の支持を得ていたソフィストたちの弁論や演説の能力、言葉を使って人を動かす力がこの対話に詰まっていると感じた。国が成り立つために、すべての国民が持たなければならない何か一つのものとして、人間のアレテ―が挙げられていた。そして、神から人間に与えられたアレテ―は人間皆が当たり前に持つと述べられていた。医療などの他の技術のように、少数の人にしかアレテ―という技術が備わってなければ国は生まれないという考えは納得できるものだと思った。謙譲心、道義心を全く持たない人たちの間では、利害の一致がない限り協力関係は生まれず集団としての活動がほとんどない。まして国などという大きな共同体をつくることなどできはしないだろう。ほんとに力の強いものしか生き残ることのできない弱肉強食の世界になってしまう。しかし人間皆がアレテ―を持つということにはあまり共感できなかった。皆に少なからずアレテ―なるものが備わっているなら少なくともこれほど多くの犯罪は起こらないのではないかと思う。ソクラテスが持っているアレテ―も医者などが持つ技術のように教えられるものではなく、運動神経だとか身長のように生まれ持った才能によるところが少なからずあるのではないかと僕はこの本を読みながら感じていた。そして、それぞれの時代によってもアレテ―は異なっているのではないかとも思う。例えば、日本の戦時中では考えられないようなことが、今の日本では当たり前のように正しいと考えられているのだし、周囲の状況によって自分の得た知識の正しさが変わってくるように思う。人の価値観、考え方、何を正しいとするのかなんて、文化、時代などの周りの環境によって異なっているし、アレテ―をめぐる考えに確実な正確さはないのではないかとも思う。様々なことを考えらされる本だったが、この本は僕にとって人の対話の面白さを感じることのできる一冊となった

 

 

江戸川乱歩傑作選

 

経済学部経営学科 17100097

森 諒太

 

江戸川乱歩傑作選は九篇からなる小説だった。友人よりも知恵があることを競ったり、起こった殺人事件を名探偵のごとく解決したり、人をいかにして殺すか考えたり、様々な事件の描かれている小説であった。完全犯罪、密室殺人などそれぞれの話に様々に趣向を凝らしたトリックが考えられていて、驚かされるものばかりであった。トリックだけでなく心理表現など、心の葛藤の表現が素晴らしく読んでいて、つい感情移入してしまっていた。九つの話の中で特に印象強いものは二癈人であった。二癈人は夢遊病のせいで人生を狂わされた男が、その夢遊病が、実はある男が殺人を犯すためにでっちあげたことなのかもしれないと何年もたった後で聞かされる話である。実際のところ、斉藤氏は本当に木村自身だったのか正確な証拠があるわけではないが、木村だったとしても、主人公は罪を語った木村を憎むどころか、その機智を賛美しないではいられなくなっている。僕もこの話を読んで木村の機智を、完全犯罪を成立させた方法をすごいと思った。寝ている時というのは自分が何をしているのか意識がないのでわからない、そして、本当に布団から動かず、寝ていたと自信を持って言うことができない。もしも他人から、友達ならなおさら、昨日寝ながらに動いていたと言われたり、目覚めると知らないものがそばにあったりすると自分は夢遊病なんじゃないかと否応なしに信じてしまう。そして、人が殺され、その人の所持品が自分のもとにあれば、もう自分が殺人を犯したことに疑いの余地はないと僕でも思ってしまう。殺人を成功させる方法が見事に作り込まれていると感じた。そして、この話に惹きこまれる一つの理由として、主人公の心理描写の良さがあると思った。江戸川乱歩傑作選の他の話でもそうだが、どの作品でも登場人物の内面が見事に表現されていると思う。この二癈人では、主人公が自分は夢遊病者なのではないかと葛藤する様子、木村であるかもしれない斉藤氏から殺人の真実と思われることを聞かされ、にくむというより賛美の気持ちを抱くに至るまでの心の動きを、読んでいる僕自身も感じることができた気がした。人間椅子なども、椅子職人心理描写が見事で、彼が椅子になることのすばらしさをどれほど感じていたかということがとても伝わってくるものだったと思う。人間椅子は、ある女性のもとに手紙が届く。その中には手紙の書き手の犯してきた罪が書かれている。その罪こそが椅子になることで、手紙を受けとった女性は自分の椅子の中に男性がいるのか恐怖する。しかし、その手紙と思われていたものは小説だったと気づくことで締めくくられている。この江戸川乱歩傑作選は、江戸川乱歩の変態的な描写、表現があまりにも上手で、江戸川乱歩は変態の気質があり、自分の欲望をそのまま小説という形に投影して表現していたのではないかと思わされるものであった。それほどに心理描写のしっかりした作品だったと思う。

 

 

罪と罰

 

経済学部経営学科 17100097

森 諒太

 

 主人公であるラスコーリニコフが高利貸しである老婆、アリョーナを殺すことを計画し、様々な心の葛藤を経たのち、ついにアリョーナを殺してしまう。しかし、予想外に居合わせた妹のリザヴェータをも殺してしまう。その後、主人公は苦悩と葛藤の日々を過ごすことになるというのが罪と罰という話である。意地悪で気まぐれな老婆を殺して金を奪っても良心の呵責を感じことはない。そして、奪ったお金を世のために使うことがどれほどの善行であるか、という話を飲食店で聞く。ラスコーリニコフの頭にもちょうどそのような考えが浮かんでいる。この飲食店での会話がラスコーリニコフにとってなにか予言か天啓が含まれているものであるように感じてしまう。様々な葛藤をし、空想し、自問で自分を苦しめながら、様々な要素、運が重なり殺人が成功してしまう。殺人を犯すまでの葛藤、母からの手紙を読み自問自答する姿など、ラスコーリニコフの内面はこの小説にまじまじとさらけ出されているが、僕はなかなか共感できなかった。良い殺人というものは存在しないと思う。例えそこに主人公のノイローゼや、生活苦の圧迫、母と妹への愛情などの要素が加わったとしてもやはり共感できない。殺人を犯すまでの心の葛藤にはもどかしさを感じた。しかし、僕がこのように感じるのも主人公とはまるで違う家庭環境でそだったからあり、ラスコーリニコフの環境だったらとても共感できるような価値観を持つことになるのだろうとも思う。それほどに現実味あふれる表現であり、本物の人の精神的な葛藤がそこに表現されているように思う。ラスコーリニコフが最初に悩まされた疑問が書かれている場面がある。それは、なぜ犯罪というものは、ほとんど例外なく、簡単にかぎつけられ、露見してしまうのだろうか、なぜほとんどの犯人がその痕跡を明瞭に残していくのだろうかということである。そして、ラスコーリニコフは、最大の原因は犯罪を隠すことが物理的不可能というより、むしろ犯罪者自身の中にある。犯行の瞬間に、意思と判断力の喪失状態、そして、軽率さに取りつかれてしまうことが原因であると結論付ける。その意思阻喪は、病気のようなもので、犯罪実行の直前が頂点で、その後病気と同様の経過をへて消えていくものだと考えている。そして、その病的なものは克服することが難しいとラスコーリニコフは考える。しかし自分の行う行為は犯罪ではなくその病的なものには無縁であると思っている。犯罪でないと思う一方、事を起こすことがなかなかできず自分を信じられないままでいる。様々なことを考えているが、実際にはラスコーリニコフは心のどこかで自分の犯そうとしている行為がまぎれもなく犯罪であると自覚しているのではないかと思う。なんとかして自分の行おうとしている行為を正当化しようとして、様々な葛藤をしているのではないかと思う。ラスコーリニコフは老婆を殺すという罪を犯す前から、すでに、殺人を考えたことによる精神的な苦悩、葛藤という罰をすでに受けてしまっていたのではないかと思う。